文字で語る音語

音で物語を創るボカロPが文章を書くブログです

陽キャと陰キャと。感染症対策の啓蒙に分断を用いること。

ずっと嫌だなって思っていたことを書きました。

 
感染症の広がりを抑えることの最も効率的な方法は今も昔も「人と人の接触を無くすこと」だ。
コロナについてもこの点は同じで、この病気がニュースに乗り始めてからほぼ一年が経つ今もなお、そういった対策が必要な状況となっている。

しかし、実際のところそれらの対策をずっと取り続けることは本当に難しい。
そもそも人間は社会的動物で、人と人同士が接触することを前提にこの社会はできている。人々が群れて狩りを行っていた原始時代の昔も、Amazonで数クリックしたら誰か他の人が物を届けてくれる現代も、実際のところこの社会は人と人同士が接しあって発展していくように組まれているのだから。
(ふと気になって「社会」でgoo国語辞典を引いてみたところ「人間の共同生活の総称」「人間の集団としての営みや組織的な営み」とあった)

それゆえ、その対策を、広く人々に呼びかけることが必要になってくる。
政府の広報だったり、医療機関のWebサイトだったり、あるいは個々人のブログだったりSNSだったり、口コミだったり。

けど、上記の通り、そういう啓蒙を行なったとして、対策が徹底的な100点満点に至ることは現実的に不可能で、
だからこそ、そういう言葉をかける側も色々な言い方がされているのだけれど、やっぱり、その中でも特定の層への「ウケ」を狙って書かれる言葉選びがいくつかある。

 

いわゆる「陽キャ陰キャ」の対立構図を用いたものだ。
具体的には「“かつてそれなりに一人で行動することが好きで、その行動について社交的な人からの言葉に嫌味を感じて苦痛に思った経験のある人“に向けた、そういう記憶をくすぐって行動の抑制を啓蒙する」ような文体だ。
前向きな言い方をするなら、「“陽キャっぽい“行動をとると感染拡大に歯止めがかからないから、みんなで“陰キャっぽい趣味嗜好を満たせるような“行動を取ろうよ。そうしたら、とても大変な対策の徹底も楽しく行えて、みんなハッピーだね」と言うふうにも考えられるかもしれない。

とはいえ、しばしば見かける文章はもっと刺々しい。
かなり意識的に陽キャの行動への憤りを煽る言葉選びをして ━━ 例えば「よく怒鳴る人」「陽キャパリピ」と並べたり、あるいは過去の嫌味の記憶を引用したり ━━ 、それに対して陰キャ(要はオタク趣味)の楽しさを語るような、そんな構図。

 

確かに、そういった論理構造は、確かに効果的だ。
過去の嫌な記憶をくすぐってくれるからだ。

陰キャの属性は ━━ 英語ではギークやナードと呼ばれるような ━━ オタク趣味ともそれなりに範囲が被っていて、だからこそ今まで多かれ少なかれ差別される側だった。
そして、社交的な人間は、その社交性ゆえにマジョリティに立ちやすい。あるいは無自覚にしこりを感じるコミュニケーションをとったことも多かった。ボカロPやっている「オタク」な自分の記憶を思い返しても、そう思う。
ここ数年のSNSの発達や、いろんな趣味の市場規模の進展でやっとその構図は雪解けしてきたと個人的には思っているのだけど、それでも過去の記憶はそうそう清算するのが難しい。

そんな中で、コロナ禍で「陽キャ的な」行動が「悪徳」とされて、善悪の基準が、有り体に言うと「陽キャ陰キャの立場」が入れ替わった。
だからこそ、そういう「立場の逆転」で開放感を覚える事自体は、むしろ自然だ。
それ故に、そういった気持ちをくすぐる言葉が、感染症予防の対策の啓蒙にも使われることとなった。
こういう論は、共感さえできればやはり気持ち良いモノだし、だからこそ共感が強いほどに自分の行動を強く律する動機付けとなる。

 

けど、それでもやはりこの論理構造は、特定の憎悪を煽って、人を焚き付ける言葉にすぎない。その効果の高さも、感染症で死ぬ人を減らすという意義も認めるけれど、それでも言葉自体は後ろ向きだ。
何よりこういう言葉は、今の災厄が終わった後まで、人の心を縛ってしまうものだと思う。

憎悪に基づいた感情というのは、基本的に引っ込みがつかない。
そして、ざっくりとした属性に基づく分類は、えてして人の意識を縛ってしまう。
だからこそ、この言葉は、コロナ禍に限らず、ずっと先々にわたって人の行動を縛ってしまう。

本当のところ、常に「陰キャ」な人間も、常に「陽キャ」な人間も、どっちもいない。分類で人を類型化するなんて(ある程度は必要だけど)本当はくだらないことだ。
なのに、本気で分類された属性を信じ込んでしまったら、それこそそういう分類に基づいた行動以外を取りづらくなってしまう。
「あの日、人と一緒に過ごすことをあんだけ叩いたのにな」と思いながら行動する不自由に囚われてしまう。

比較的に人と一緒にいる方が快適な人も、たまには一人でいたい日もある。
逆に、一人で趣味に打ち込むのが好きな人も、好きなことが同じで話していて楽しい人となら、一緒に過ごすのは楽しいことだ。
本来なら、一人で打ち込む趣味も、いろんないろんな人とワイワイ過ごすことも、どちらも全然楽しい事なのだ。

なのに、片方の行動だけを正義として讃え、片方を悪と断ずることは、本当に先々にわたって禍根を残すものだと思う。
コロナ禍なんて、せいぜい後2年もあれば終わるものなのだから。一方で、一度、脳裏に深く刻まれた憎悪は、あるいは一生消えないものなのだから。
(ここ数年で、やっとナードなオタクもSNSなどで相互に交友関係を広げられる時代になったのに、今になって「コロナ禍の下では正義だから」と過去の記憶に引きづられるのは本当に残念だと思う。)

 

今、喫緊の課題として行動を抑えたりとかいろんな対策を行う必要性そのものは、自分だって否定するつもりはない。
けど、だからこそそれを呼びかける方法は選ぶべきだと心から思う。

仮に命が守られるとしても、その後に分断と憎悪が煽られるのなら、なんの意味も無いのだから。