文字で語る音語

音で物語を創るボカロPが文章を書くブログです

古典の文化に接する価値って多分こういうの

コンテンツというものは自分と同時代のものが一番楽しい。

これは厳然とした事実ではなかろうかと思う。

娯楽というのは、日々、新しいネタを取り入れて表現技法を進化させているし、社会的価値観も時代を反映する以上、同じ時代のコンテンツの方が受け入れやすいのは必然だ。
その観点だけで論じたなら、古典文化は「とっつきづらく冗長で、わかりづらくて、価値観的にも古臭い」ものに写ってしまう。

しかし、それでもなお、古典文化に触れて見ることには価値がある。

 

今なお繰り返し演じられ、飾られ、聴かれる文化は、言い換えるなら少なくとも百年以上、埋もれやすい娯楽の市場を勝ち抜いてきたコンテンツと言える。そんな強いコンテンツだからこそ、それには時代を超えた普遍的な良さがある。
どうしようもなく文脈の前提知識が必要とされることが多いが、それさえクリアできれば、どんな時代の人間でも楽しめる可能性はあるのが、古典文化というものだ。

そしてもう一つとても大切なこと。
「古典文化を見ることで時代を超えた良さを識れば、逆に時代に即しているからこそ生まれる良さを区別して楽しむことができる」という点だ。
最初に書いた通り、コンテンツは絶対的に時代ごとの社会的価値観を反映する。あるいは縛られると言ってもいい。
だからこそ、同時代の人間から広く受容されるコンテンツには「時流を反映した良さ」があると、常々思う。(例えば、ヨルシカもYOASOBIも、米津も20年前ならヒットしたかは僕には全くわからない。AKBやモーニング娘。を今見ても同じように感じてしまう。)

けれど、そういう「時代に即している部分」がどこなのか?という部分は、全く逆の観点たる「時代を超えた良さ」を知らずに探し出すのは極めて難しいのではないかと思う。

そして、そういう「時代を超えた良さ」を掴んでいくためには、やはり10年、20年程のスパンでコンテンツを探すだけでは少しだけ不足していて、100年単位のコンテンツを比較して観ることが最も効率的なのではないかと思うのだ。

そういう意味で、古典文化はこの将来どんなに時間が経とうとも、触れていく価値があるものなのだろうと、そう思った。

「今自分が触れているコンテンツも、できるだけ多くが古典として残りますように」とそんなことを願いながら━━

(吉例顔見世大歌舞伎を見てきたときの感想を考えながら、ふと昔上野の美術館で展覧会を見たときに思い浮かんだことの考えがまとまったので、さっと文章を書きました。そんな雑記。)